盲目の俳句・短歌集

大森理恵/辺見じゅん 編

見えないからこそ、見えるものがある。視覚障害をもつ人たちが、全身で感じたこと、心の目で見たもの。研ぎすまされた感覚や、人のぬくもり。なにげない日常――。さまざまな物や事象、感情が、限られた字間に表現された、俳句・短歌の作品集。帯広市にある、社会福祉法人「北海点字図書館」の会員誌に、長年にわたって寄せられた作品を、俳句と短歌の第一人者、大森理恵、辺見じゅんの両氏が選および監修した、秀作集です。

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初版2000年5月15日 ISBN4-944098-73-1 C0092
A5変形/152頁 並製本 ●定価 1,296円(税込)
*『まなざし-盲目の俳句・短歌集』(点字プレート付録付き)を冊子のみの形で改題・再販

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「まなざし」のこと ――大森理恵
作品は、それぞれの俳句・短歌の、まなざしの向けられた視点、テーマごとにまとめています。
(各テーマ 俳句50句/短歌40首)
ぬくもり
家族
問いかけ
根っこ
慈しみ
明日

あとがきに代えて ――辺見じゅん

大森理恵 (おおもりりえ)
俳人。京都生まれ。UCLA卒業。幼少期より父の影響で俳句に親しむが、米国留学などで一時遠ざかる。帰国後、作家活動を再開。精力的に、後進の指導・育成に力を注いでいる。主な受賞歴に平成3年角川春樹賞、同4年「河」新人賞、同10年「河」賞、同20年には、句集『ひとりの灯』で第一回日本一行詩大賞を受賞。

辺見じゅん(へんみ じゅん)
歌人・作家。富山県生まれ。早稲田大学卒。角川書店の創設者・角川源義の長女。主な著書に『花子のくにの歳時記』、『昭和の遺書』、『大下弘・虹の生涯』、『男たちの大和』(第3回新田次郎文学賞受賞)、『収容所から来た遺書』(第21回大宅壮一ノンフィクション賞および第11回講談社ノンフィクション賞受賞)。歌集では『幻花』、『闇の祝祭』(第12回現代短歌女流賞)など多数。

“見ること”繊細な感情、心で読む(十勝毎日新聞/2000年5月13日掲載)
北海点字図書館(帯広市東2南11、後藤市郎館長)の「声の文芸教室」に寄せられた、全国の視覚障害者の俳句・短歌をまとめた「まなざし」がこのほど、東京の出版社から全国発売された。点字の作品集はこれまでもあったが、出版社によると「健常者向けに目の不自由な人だけの俳句・短歌集は珍しい」という。収録しているのは俳句三百句、短歌二百四十首。ぬくもり、問いかけ、家族、根っこ、慈しみ、明日のそれぞれのテーマに、「口笛の子が誘導す茸狩り」「テレビの字幕読みくれし子の立ちゆきて我に盲いの現実戻る」など、視覚障害者ゆえのこまやかな感情や思いがつづられている。健常者にとっては、日々忘れがちな「見える」ことについて考えさせられる作品が多い。
俳句・短歌集は一九七一年から発行している情報テープ「北海ジャーナル」の「声の文芸教室」欄に寄せられた作品。今回、俳人の大森理恵氏と歌人でノンフィクション作家の辺見じゅん氏の二人が、一万点以上の中から改めて選んだ。同図書館の創立五十周年を記念して企画した。全国販売について後藤健市副館長は「障害を持つ人たちが心で詠んだ作品ばかり。多くの方に読んでいただき、障害への理解を深めてもらえれば」と話している。

耳、手で“みつめた”540作品(点字毎日新聞活字版/2000年8月31日掲載)
北海点字図書館が発酵するテープ月刊誌「北海ジャーナル」に掲載された俳句、短歌の秀作を1冊にまとめている。同誌「声の文芸教室」に1971(昭和46)年から98(平成10)年までに寄せられた優秀作、俳句6088句、短歌5416首から、俳人の大森氏と歌人の辺見氏が選を担当。右ページが短歌(4首)、左ページが俳句(5句)という見開きレイアウトが独特。全体を「ぬくもり」「家族」「問いかけ」「根っこ」「慈しみ」「明日」の6ジャンルに分け、点毎でおなじみの投稿者も何人か目につく。「耳は見るのである。……手や耳、鼻や舌によっても見ているということであろう」(辺見氏のあとがき)との趣旨からつけたのであろう、そのタイトル「まなざし」をひらがなの凸字で浮き出させ、ふりがな風に点字を添えたカバーの装丁や、北海点字図書館考案のポケットサイズ点字プレートを付録としたのもユニーク。

感じること(角川書店『短歌』9月号/ほんのページ掲載)
「盲目の俳句・短歌集」というタイトルから予想していた作品とはずいぶん違った印象をもった。けして暗さがないこと、視覚だけではない障害あるらしいこと。まず視覚障害らしい視点をあげてみる。
 ●手さやればゆらりと白き花垂る産毛の瓠は尻まろくして 福士重治
 ●触れられるものは余さず触れてきてつり革持つ手に青蕗匂う 今井幸一
 ●妻我の掌に書く「むしがないてます」 清水偉久夫
触れて感応した作品に特色があるだろう。瓠のまろやかさは目で捉えたときより官能的だ。虫が鳴いていると伝えることですら、間接的になることで叙情をもってくる。また光を感じている作品が多かった。
 ●わが部屋の明かり求めて窓に来る蚊もまた孤独なのかもしれず 石黒久蔵
 ●「ほら見てよ」男の子は蛍を我の手に光ると言えり見ゆる心地す 椙山和子
 ●予後の母春へ押し出す乳母車 佐々木千代子
 ●イヤホーンを外せば冬陽落ちてをり 服部憲児
光に敏感なのだろうか。物の形を捉えることができなくても光を感じることはできる。「見る」という行為は、もしかしたら見えてしまうことで感じることが弱くなってしまうのではないか、そんなことを考えた。つまりこれらの作品はストレーに「感じる」ことを表現しているのだ。もちろん人生を詠った作品も多い。
 ●「十八ですか」しんみりと医師の声告げ難かりしか失明すとは 中條たつ代
 ●盲目の母に馴れしかにべもなく電灯を消し子は去りにけり 徳本清子
 ●罪科を暴くが如く見えぬ眼に光を当てて覗く眼科医 鈴木虎杖
 ●子の顔を生涯知らず虎落笛 馬渡久利
これらは厳しい現実のなかに身をおいている。現実を正面から捉え、逃げていない。その力強さはどこからくるものなのか。表現形態に違いはあっても、俳句も短歌も訴えてくる力に違いはない。交互のページに組んであるが、双方が違和感なく解け合っている。理屈はいらない。秀作をあげるだけで、どんな批評より雄弁に語ってくれるだろう。どの作品も生きるエネルギーに満ちている。詩としての機知があるのだ。
 ●十冊に余る点字のパスカルのパンセを前に折れそうな脚 阿佐博
 ●湯豆腐に角あることの美しき 小松吟翁
 ●点字読む指を仔猫の舌に貸す 三原直子

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