百人一首でつづる平安時代

松本匡弘 著

時代の流行に関係なく一定の読者を有する「百人一首」。 それは人生や男女の機微をこまやかに歌い上げた心情が、 今日の時代にあっても日本人の感性に訴え、共感を覚えるからだろう。
本書はそれぞれの短歌をひもときながら、詠まれた情景・背景や作者の人生についても踏み込み、 平安という時代を短歌によって引き寄せていく。 単なる解説本と異なり、文法なども思い出しながら、百人の作家を通して400首以上の和歌を自分のものにすることができる。 日本人として知っておきたい短歌の教養書としてもお奨めの一冊。

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初版2011年7月1日 ISBN978-4-905239-02-4
A5判396ページ●定価 2,808円(税込)

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はじめに



第1番  秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ/天智天皇
          :
          :  (第2番〜第99番)
          :
第百番 百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり/順徳院


参考文献

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第五十七番
めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲がくれにし夜半の月かな
                                     紫式部(むらさきしきぶ)


新古今和歌集に題が付いて載せられています。まずその題を要約してみましょう。

久しく会っていない幼友達に行き逢ったと思ったが、その人だと分らないうちに帰って来てしまいました。ちょうど七月十日の月が雲に隠れるのと先を争うようにして帰ってきてしまったからです。

彼女はそういうわけでこの歌を詠みました。題が分かれば歌の意味はすぐ分かりますね。月によせて友人と行き違ってしまった残念な気持ちを詠っています。「見しやそれとも分かぬ間(わかぬま)に」の「それ」は代名詞であって、「それとも」という接続詞ではありません。「それ」は「幼友達」と「月」の両方を指しているのです。


紫式部(973頃〜)
藤原為時(ふじわらのためとき)の娘。父の官名である式部丞と、藤原の藤から、はじめは藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていましたが、源氏物語が大ヒットすると、作中の人物「紫の上」の名から、紫式部と呼ばれるようになりました。
藤原為時はすぐれた漢学者で、彼女も幼少から聡明であり、同母の兄弟の惟規が父から史記などを学んでいると、彼女は傍らにいてそれをよく聞き覚えてしまうので、父は彼女が男だったらとつくづく嘆息したということです。
西暦999年頃、彼女は父の友人で二十歳以上も歳が違う藤原宣孝(ふじわらののぶたか)の妻となり、第五十八番の作者である大弐三位を生みます。夫婦仲はたいへん良かったということですが、夫、宣孝はわずか二年ののち、病死してしまうのです。そしてその悲しみに暮らす中、彼女は、千年ののちまでも読み継がれる源氏物語の執筆を始めることになります。
源氏物語については、八百首に近い和歌を含む、現代ですら稀な膨大なボリュームの長編小説であり、物語としての完成度、奥の深さ、人の心を描写する巧みさ、登場人物の多さ、文章の美しさなど、どれをとっても、古今の時代を超え、東西の世界を超え、間違いなく第一級の作品であるといえましょう。
源氏物語が後世に与えた影響は計り知れず、研究、評論、論文は言うに及ばず、演劇、歌劇、絵画、歌舞伎、浄瑠璃、能、戯曲、音楽、映画、テレビ、漫画など、ありとあらゆるものに、その影響を見ることができます。その研究書の数、現代語や各国語に翻訳された数などは、文字通り星の数ほどあり、到底その全てに目を通すなどできることではありません。

さて、彼女は西暦1005年頃から、まだ十七歳ほどであった藤原道長の娘で一条天皇の中宮、藤原彰子の家庭教師役として仕え始めます。この頃はもう源氏物語が評判となっていて、彼女はすでに有名人であったようです。この頃の宮廷生活について彼女が書いたものが、紫式部日記として残っており、職場の同僚の女性たちに対する彼女なりの人物評などや、藤原道長との歌のやり取りなども書かれています。

好きものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ

この歌は道長が、娘の中宮彰子が源氏物語を読んでいるのを知り、そばにあった梅の枝が置かれている色紙を取り、歌を書いてその作者である彼女をからかったものです。梅の酸き物と、好色という意味の好きものを掛け、こんなものを書いている人はよほど好きものと名が立っているだろう。と言っているのです。
彼女はこう返しました。

人にまだ折られぬものを誰かこの好きものぞとは口ならしけむ

異論はあるようですが、彼女が同時代の女性たちと大きく違っているのは、浮いたうわさがほとんどないということでしょう。
歌人としての彼女は勅撰和歌集への入集歌が六十首ほどもあり、間違いなく一流であったことが知れます。しかし、このように世に騒がれた才女も、西暦1013年頃からは自宅に引きこもってしまったようであり、その後の消息は不明となってしまうのです。   (P220〜222より)


松本匡弘(まつもと・まさひろ)
1952年、東京生まれ。高知大学農学部卒業後、東京中央青果株式会社(現・東京シティ青果株式会社)入社、現在に至る。築地市場の騒がしい「やっちゃば」で果物のせり人として八百屋やスーパーのバイヤーと渡り合い、集荷のため全国の農協などを飛び歩くこと25年、その後、総務部へ異動となる。多忙と喧騒を極める仕事の合間に、本書を執筆した。

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